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創業者ストーリー

老舗呉服屋の御曹司から一転、36歳で無一文からの再起。天賦の商才に飽くなき情熱、研ぎ澄まされた直感でブルーオーシャンを探し求め、一代で日本中に名を馳せるマルチブランド・フランチャイジーを作り上げた男。
株式会社セント・リングス 
創業者「青木謙侍」(1958-2018)


 

呉服屋の跡取り息子としての若者時代

1958年、青木は、神奈川県厚木市の老舗呉服店の次男として生を受けた。父は25歳の時から祖父の跡を継いだ商売人で、母はおとなしい性格の人だったが商才には長け、専務として事業を支えていた。

青木が小学生の頃には早くも商売に興味を持ち始め、好きなプラモデル売り場に入り浸って考えたのは「どうしたらこの店の売り上げを上げることができるか」ということだった。更には家業の呉服店で接客をするようになり、その姿でお客たちを驚かせた。男ばかり三兄弟の次男で自他ともに認めるガキ大将であった青木は、兄弟の中でも特に商売好きで、父の血を強く受け継いだのだと感じていた。こうして、次男でありながら呉服屋の跡取りとなることを誰もが認めることになるのは自然の流れであった。

商売人である父には「子供を慶応に入れたい」という夢があった。青木が小学校4年生の頃には3名の家庭教師といくつもの塾に通うという徹底的な受験勉強体制が組まれ、猛勉強に励んだ。結果、念願の慶應義塾中等部への合格を果たし、父の期待に応えることができたのであるが、入学後すぐに自分は井の中の蛙であったことを思い知らされることになる。一度は挫折を味わったものの、勉学の代わりに打ち込んだのはスポーツ。中高等部6年間はラグビー、慶応義塾大学では父の勧めもありゴルフにのめりこんだ。この間のスポーツを通じて得られた友情や教訓は、今後の人生にとって何物にも代えがたい宝となった。父にはまた、「自分の跡取りになる息子には、自分と同じ丁稚奉公をさせたい」というもう一つの夢があった。大学卒業後の青木は取引先の問屋へ3年の約束で丁稚奉公に出ることになるのだが、父が癌を発病したことによって、2年で家業に戻り事業を支えていくこととなった。そして、父から経営を引継ぎ、母が社長、青木が常務となってから4年の後、父はこの世を去った。

父の亡き後、母と青木は経営方針をめぐって対立を深めていく。母の保守的な考え方に対して、青木は跡継ぎとして自分のカラーを出したいと新たな挑戦を望んだのだ。しかし、青木の意気込みとは裏腹に、最初に仕掛けたツタヤのフランチャイズ事業は赤字続きの大失敗に終わる。そして、母と青木との確執を決定的にしたのは、青木が家業の呉服屋を閉めると言い出したときからだ。青木の判断では、先細りの呉服屋は未来がないので、財産があるうちにクローズするのが得策と考えた。幸い、会社としては不動産の財産があったため、呉服屋を閉めても貸しビル業で生き残っていくことができる。そこから新しいビジネスを生み出していけばいいと考えていた。そして、周囲の猛反対を押し切って呉服屋を閉めたのち、貸しビル業においても再び母との意見が対立し、半ば脅迫のつもりで辞表を叩きつけるも、母はすんなりとその辞表を受理。さらに、子会社や関連会社をも含む全ての職を解かれ、一瞬にして「無職・無収入」の人間になってしまったのだ。青木36歳、前年に結婚したばかりの妻を連れて、期せずして無一文からの再出発の年となったのである。

資金ゼロからの独立で大成功

そんな折、友人が加盟していたピザーラが青木の想像を超える繁盛店となっていたのを目の当たりにし、「よし、自分もやるぞ」と決意を固める。青木はすぐに、学生時代から面識のあったピザーラのフランチャイズ本部である株式会社フォーシーズの浅野秀則社長を訪ねFC加盟を切願。浅野社長は、青木が無一文であるにも関わらず「5店舗までは店長として現場で働くこと」を条件に加盟を承諾したのである。青木は新店舗の開業場所を母のお膝元である厚木市内に希望すると、本部がその物件探しをしてくれている間に銀座店で研修に入り、そこでは自分よりはるかに年下の若者に頭を下げながら仕事を教わるという生涯で初めての経験をした。しかし、その後ようやく見つかった物件の出店プランを見た浅野社長は「ここに出店したらダメだ」と言う。「実力も金もないやつが、競合店のあるところに店を出すのは、おかしいだろ。失敗するぞ。苦しむぞ。」と。当時、業界最大手の宅配ピザチェーンの国内売上2位の店舗が同じエリアにあったのだ。こうして出店プランを白紙にすると、浅野社長は続けて「イエローページ(職業別電話帳)で東京に近づかずに、宅配ピザ屋のない場所を探すように」と青木に指示した。競合店のないところに店を出すことが最優先という訳である。早速、イエローページで厚木市から伊勢原市、秦野市、小田原市と順に下っていき、遂に青木が見つけた宅配ピザの空白地帯は、運命の地となる「御殿場市」だった。次の日には青木は御殿場市に入り物件を見つけ浅野社長の承諾も得た。さらに手持ち資金のない青木のために、浅野社長は、本部への加盟金は売り上げからの延べ払いに、業者に支払う内装費や什器備品代も後払いにする交渉まで行ってくれたのである。

遂にオープンしたピザーラ御殿場店は、初日から大盛況。毎日の売り上げが30万円40万円という快進撃が続き、後払いにしてもらっていた内装工事などの代金はもとより、全ての借金を年内に完済できたほどだった。この成功要因をしっかりと受け継いで開店した2号店の富士宮市ではさらに大ブレイクし、オープン初月において、ピザーラにおける日本一の売上げを記録した店となった。ところが、この立て続けの成功に慢心した青木は、3号店を競合のある沼津市に出店してしまい失敗の痛手を被ることになる。そうして青木が沼津店の失敗で失速している間に、御殿場と富士宮での成功情報が他のピザーラオーナーに流れ、やる気のあるオーナーが一斉に静岡県に乗り込んでくると、空白地帯はあっという間になくなってしまった。皮肉にも、沼津店の失敗が、御殿場店、富士宮店での成功はまさにブルー・オーシャン戦略の賜物であったことを青木に認識させる契機となったのである。こうして、事業家として多店舗化を目指す青木は、別の新たな成長戦略を模索していくことになる。

マルチブランド・フランチャイジーという戦略

ここで、資金力に乏しい企業が事業を拡大するためには、効率的な運営と流動的な人材活用が必要であり、それを実現するために採ったのが「御殿場エリアを拠点として、別のフランチャイズを展開する。即ち、第二のピザーラを見つける。」という戦略だ。様々なフランチャイズを検討した結果、当時のトレンドに合っていて、かつ全く新しいコンセプトを打ち出していた「牛角」を次のフランチャイズに選んだ青木は、ピザーラ店舗への影響を危惧し反対するフランチャイズ本部を半ば押し切る形で牛角の事業をスタートさせる。「背水の陣」で臨んだ出店は成功し、続けて多店舗化を進めた。そして、出店エリアがなくなるとまた次のフランチャイズを探す。この戦略が、後に20以上のブランドを展開する「マルチブランド・フランチャイジー」という企業形態に発展していくことになる。

このように、追い詰められて生まれた「マルチブランド・フランチャイジー」という手法であったが、効率的な運営と人材・店舗の流動的な活用、リスク分散、多様なノウハウの蓄積、スピーディーな事業拡大、フランチャイズ本部との良好な共存関係の創出など、数々のメリットを生み出した。業態を入れ替え制として考え、良くなりそうなものに取り掛かる(入口)、安定しているものを中間に据える(継続店)、ダメになったものをやめる(出口)、という3本立てで常に新陳代謝を繰り返していく戦略は、最高のビジネスモデルと言えよう。さらには、飲食ばかりだったフランチャイズの枠を超え、学習塾や美容室などの異業種への挑戦も成功させ、今日に至る厚みのあるマルチブランドに進化させていったのである。

青木謙侍が遺したもの

平成30年1月8日、天賦の商才に飽くなき情熱、研ぎ澄まされた直感でブルーオーシャンを探し求め、一代で日本中に名を馳せるマルチブランド・フランチャイジーを作り上げた男、青木謙侍は59年の荘厳な生涯を閉じた。100年企業へ成長させようと最期まで尽力していた青木が遺したのは「生活舞台」だ。それは、私たち働く者が生きがいと働きがいを見いだすことができる気高き場所である。青木の生み出した経営理念は私たちの胸に生き続け、セントリングスはこれからも変化と挑戦を続けていく。